SENSE OF DISTORTION

あるミュージシャンのブログ

介護士サポーターとして、(介護士の)仕事の、マネジメントがしたい。

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生活保護は、資本主義社会の敗者が、受けるもののため、役所のケースワーカーは、どうしても押し潰すような応対になる。完全に支えようとすると、不自然になり、する側に大きな負担がある。そこまでして、それをするケースワーカーはいないし、出来ない。つまり、そのような、聖母マリアのような人はいないということである。

老化は、自然現象であることから、敗者ではない。つまり、介護士の仕事は、利用者本位で、支えることになる。また、我流で、介護者本位に介護を押し付けることも理屈的には可能である。

結論から言うと、介護士の職の本質は、「利用者の、生の心を整える」。ケースワーカーの職の本質は、「利用者の、生の生活を整える」。生活があれば、そこに存在している人の心があるし、心があれば、そこには、人が生活しているのであることから、この二つの仕事には、確実的なつながりがある。

生活保護受給者は、生きるための生活がすべてで、高齢になった時に、介護保険が受けられないし、老人ホームにも入れない。福祉が出来ることは、生きるための支えだけしか成しえないのである。漫画のような話になるが、もし、この問題をクリア出来たら、介護士は、「自立する権利があることを、利用者本位の、支える意味を持った言葉で、助言することが出来る。」終末期ケアにおいては、看護師よりも、介護士の方が患者への貢献度が、本来、高く存在すると断言してよいと言えると思う。それは、終末期ケアというのは、病状への対応だけではなく、その時期の心への対応が必須だからである。

「健康で文化的な最低限度の生活」というドラマは、漫画のようなケースワーカーを描くことで、実際には出来ない介護士の仕事を、主人公が、繰り広げるストーリーである。これは、つまり、生活をする上で、心が揺れ動く、その、心に対しても、対応するという、同じことをするにしても、圧をかけるという現実のケースワーカーに対して、介護士のように、利用者本位で、支える手法で、解決するという漫画ならではのエンターテイメントである。

介護士サポーターとして、(介護士の)仕事の、マネジメントがしたい。内容を説明します。

僕が、なりたいのは、介護士の応援をする、介護士サポーター(熱狂的なファン)です。介護士サポーターの役割は、介護士に声援を送ることで、介護士の心を整えることである。介護士を裏から支えたい。これは、介護士の職の本質を分かってる僕だからこそ、出来るサポートだと思います。

具体的な内容は、こうです。

1

介護士の仕事ぶりを堪能する。

2

一人一人の介護士に対して好きな気持ちを伝える。

3

一人一人の介護士の好きな所を言う。

4

一人一人の介護士としての良さを伝える。

5

介護士、個人個人が、いい気分になる。自分の価値を認知する。

6

すべての介護士の、仕事へのやる気、意気込みにつながる。

以上が、自己アピールです。

現代人は、人権問題と混同して、ポジションを立場とすり替えた。

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奴隷制度の廃止が成立した勢いで、さまざまなことが人権として世に、挙げられてきた。だが、しかし、そのほとんどは、人権、つまり、立場ではなく、ポジションだということである。

ポジションは、サッカーで例えると、フォワードが、努力して、ミッドフィルダーを倒し、権利を勝ち取るということはありえない。その概念自体が存在しないのである。

だが、ある立場が、その立場を支配している立場の人を倒し、勝ち取るものを手にする概念は存在するのである。

これが人権問題なのであり、前記は、問題自体になる意味すらない、もちろん、価値などあるはずのない、不快感など感じる必要もない、秩序なのだからというものなのである。

つまり、ポジションは、変わらないのである。「変わるはずがない」のである。現代人は、人権を大事にするという価値観の勢いに乗って、人権問題と混同して、ポジションを、立場だと勘違いし、まず、いじめ、次に、セクハラが生まれ、現代になって、パワハラが生まれ、あげくの果てには、オワハラなんてものができている。すべて、ポジションを立場と勘違いした結果である。

高齢者という用語は、人間の人格に関するハラスメントである。戦争という概念は、人類の尊厳を扱うオルタナティブハラスメントであると言え、これらは、立場問題であり、意識の転換で改善することが出来る。だからこそ、奴隷制度が、廃止出来たのである。

人類が、自分自身の使命から逃げ出す時に。

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先に述べておく。今、現在は、アナログが残っているITの時代ではない。そう多くの人が感じているだろうが、アナログが古いという価値観は、錯覚というべきである。正しく述べると、今、現在は、ITの時代に入りつつあるアナログの時代であるということである。つまり、それが何を意味するのかと述べると、すべてのIT的なものは、アナログの基礎の上に成り立っているということ。例えを一つ出すと、ネットで買った商品を届けるのは、「車」であるということ。そして、それを運転するのは、「人」であるということである。どんなに時代が動こうとしていても、そこのベースは、秩序として、存在しているから成り立つ世界だということである。つまり、ITは、まだ、実験的なものに過ぎず、社会の秩序は、アナログなのである。

では、もし、安全が完全に保証され、完全なIT時代に入ったら、どのような世界になるのか。説明すると、そうなった途端に、アナログは、まったく新しい価値観のものになる。秩序が変わったことで、「別の秩序という新しさ」のブランドになる。理由は、秩序に新しいも古いもないということからである。これにより、アーティストは、楽にたくさんお金を稼げる、収入重視で音楽をするタイプと、収益が少ない、芸術性重視のタイプに分かれると言えると思う。つまり、アナログとITの関係性は、太陽がITで、月がアナログ。要するに、リーダー的で、絶対に、不可欠なITと、特に不可欠ではなく、女性的、母性的な、観賞的な娯楽性を持つ、アナログということと言える。

このように、ITとアナログは、太陽と月のような関係性で、バランスをとりながら成り立っていくと言える。つまり、「秩序が、二つ点在する」、多様性に富む、漫画のような人間世界になると言えるということである。

その世界が、現実になる、そのプロセスを準備し、説明しておく。ポイントは、核廃絶に今まで、取り組んできたことに対しての疑問と、提案にある。

核廃絶に向けて解決に対して努力したことは意味があり、高い自己評価していいものとらえてよいと思うが、もうここまで来て、それが達成出来てないどころか、そもそもそのプロセスのかけらすら見えてない。最初の段階から、結局、物理的に一歩も進展していない。つまり、成果と当たるものが存在していない。この事実を認識した時に、核放棄という課題を持ったこと自体が、問題だったのではないかということが浮かび上がるのが、自然なことなのではないかと思うのはおかしいだろうか。

確かに、意識は向上した。だが、その成果として、目に見えるもの、ことが何もないというのは、核兵器放棄の努力過程が、無駄ではないが、そもそも意味を持たないということではないのかと思うのである。つまり、人間は、意味のないことに、価値を見出して、意義を持って取り組んだのではないかということ。なら、する選択は、一つしかない。「逃げ出すこと」。それが、科学的にも、心理的にも、的確なアクションであり、明確な行動だと思う。

すべての核兵器を、まとめてどこかのスペースにつめこんで、放置、遺棄し、置き去りにして暮らしていく人間社会も悪くない。プロセスは何にしろ、そういう世界平和もあるということかもしれない。

遺棄した後の後始末に関しては、遺棄をセルフバックアップする形で対処すればいい。現段階の核の管理システムを目的を変えて、当てはまればいいということになる。

つまり、核兵器を管理することを辞める。管理し、コントロールすることの中で使うのだから、管理がない、管理する者がいないということは、世の中に存在していても、管理下そのものから離れているため、その脅威は、ゼロである。

つまり、核放棄ではなく、核遺棄による平和社会の実現になるということである。

核兵器を、人類の手に負えないという動機から、核のその問題自体から逃げ出して、遺棄してしまうという行動パターンで、世界平和を構築するという前代未聞の考え方があるということ。「核兵器に人類が見限られることが世界平和と言える」という斬新なケースになる。

IT技術が、促進するということは、人間が、自分自身の使命から逃げ出すということが必須ということにあると言える。逃げ出すことで、秩序が、正しく移行されるのである。逆に言えば、逃げ出すことが、いかにも人間らしく、人間らしい未来こそが、IT技術が進んだ世界ということになるのである。楽を実現にすること自体が、逃げなのであり、IT技術が進んだ世界というのは、決して、誇りではない。「らしさ」なのであり、「成果」ではない。

人類が、自分自身の使命から逃げ出すことで成立していく社会は、これから暮らしていく、自分自身に負けたことでの墓場へと続く過程の途中の、人間が住む世界となる。

「老化」と、いわゆる「心の老化」は、別物であり、普遍因子がその要因。

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老化とは、身体機能のことを指すのであり、つまり、心の老化というのは存在していなく、何らかの思考の切り替え、転換が、原因であると考える。つまり、僕は、「老化」と、いわゆる「心の老化」は、別ものととらえるべきと思う。ここから、その「心の老化」の原因を示し、その対処策を紹介する。

 

健康診断ならぬ、「暮らし診断」。

結論から説明すると、介護技術を用いて、アンチエイジングを行うサービス診断制度である。

 

老化しても、今までの暮らしを長く暮らせるようにするために設立。

介護が必要にならずに暮らせる状態を、出来るだけ長くキープ出来るようにするための制度。

 

介護技術の視点から、生活の習慣や環境を、新たに整えたりするアドバイスをする。(アドバイスのみ。それにともなった住宅の工事などはしない。)特に、ノーマライゼーションの実現を目的とし、ICFの考え方に基づいた支援を行うのが特徴になる。

 

介護保険は、困ってから困ったことに対応。

困る前に、困らないような暮らしを出来るだけ維持、キープするための制度。

(健康診断は、病気にならない状態を出来るだけ長くキープするためのもの。)

介護保険は、何かあった、問題が起きた次のステージでの対応であり、暮らし診断は、その前の、まったく健康な状態のキープが目的にある。

 

本人、もしくは、家族が要請することが出来る。

*健康診断と同じような、ワードとしての人々の認知度にする。

 

アンチエイジングの一つ。

 

このようなことは、医療技術では実現できない。介護技術での実現が望ましい。つまり、人間ドックや、抗加齢ドックではない手法。高齢者向けだからこそ成り立つ技術制度である。つまり、介護サービス版のアンチエイジングドッグである。介護サービスの視点からのアドバイスであると、医学的な視点から以上に、分かりやすく、(利用者にとって)適切な認識に出来やすく、生活に活かしやすいと思う。

 

個別ケアとしての、一人一人の生活スタイルに合った診断結果を提示出来る。医療分野以外での、ケアマネージャーを中心とした多職種によるケアチームでの診断になる。特に、介護士のさまざまなデータは大いに役に立つ。目標とする状態は、ADLをキープしながら、IADLを確実に遂行出来ること。それによって、機能障害を未然に防ぎ、社会への参加が問題なく行える。そのための、環境因子や、個人因子というベースを整える。その上で、これまで暮らしている通りの健康状態を維持、キープ出来るというメカニズム。それが、介護サービスの仕事であり、この、暮らし診断の内容である。ICFでの合理的な考え方からで成り立っている。

 

ケアマネージャーによる、診断材料としてのデータをとるアセスメントが基礎となる。一人一人において、どのようなハザードやリスクがあるのかの分析も必要になるし、ハインリッヒの法則に基づいて、三層においての事故が起きる可能性も探っていく必要を持つ。利用者が持っている最大のストレングスが何かを発見し、それを活かすことを勧めるのは言うまでもない。アセスメントする側の介護支援専門員には、傾聴と洞察が必須となる。それが介護サービスの良点である。

 

このサービス診断制度をアピールする上でのスローガンとしては、「今までしてきた生活の質を維持することを譲れない。今まで暮らしてきた生活の質を落とすことを許せない。」内容的には、正しいわがままで、正当な自分への要求になる。つまり、わがままを形にする介護サービス制度となること。現段階では、「わがまま」だが、この制度が社会全体に普及した後は、持っていて当然の主体性を重んじた権利という認知となると思う。

 

つまり、介護予防の技術サービスを、老化予防に使うということ。介護技術で老化予防をするのではなく、老化予防を介護技術で行うということ。

 

「暮らし診断」と、介護予防との分かりやすい違いは、老化することによって、長い間、今まで生きてきた考え方を、シフトする必要性があり、つまり、一つの判断として、「あきらめなければならない」のに対して、暮らしの物理的な維持だけでなく、自らの今までの人生に対する考え方も、まったく変えずに、維持するということを目的に含んでいるということ。これが、違いである部分である。老化を遅らせるのではなく、健康な状態を維持するという概念での「老化予防介護」となる。老化が進んで、介護予防をしないといけない年齢で、状態だが、それが老人っぽくて、若さを捨てるみたいで嫌だ、違和感が大きく存在するという人に適した介護サービスでもある。

 

ライチャードによる高齢者の人格の分類は、円熟型、安楽椅子型、装甲型、自責型、憤慨型の5つとされているが、僕は、どの型でもない、いわば、自然形という概念が存在すると思う。何故なら、高齢者とは、ただ、年を重ねただけの若者であり、あえて、そう分類する必要性はなく、分類する意味も皆無に等しいということ。考え方が何も変わらない、安全性を重んじた、老化にともなった暮らしだけを変化させる、その対応性が重視されるということ。つまり、老化し、自然に年を重ねた暮らしの形が求められるということとなる。高齢者という用語は、人間の人格に関するハラスメントであるということに気づく必要があり、まずそこから始めることが大切である。

 

介護が必要になった時期が来ても、高齢者という立場ではなく、どこにでもいる一人の自立した人間として、アンチエイジング(暮らし診断)の延長線上として人の力を借りるということを、介護と位置づけるという価値観を持って、介護サービスの提供を受けることが実現出来る。介護とアンチエイジング(暮らし診断)の概念は、老化に伴った補助、(出来ることの)後押しが目的にあり、受ける時期が違うことの介護技術のサービス制度であるということ。

 

自立支援が行われる過程での利用者の滞留は、三時期に分かれる。一時期目は、出来ることが少ない時期。この時期の介護職員による介助は、出来ないことの援助(支え)になる。二時期目は、出来ることが多い時期。このような時期の介助は、出来ることの補助(後押し)となる。そして、三時期目は、高低(数値)の概念がない状況のスパンである。このスパンの介助とは、バックアップ(後ろだてとなること。援助してもりたてること)である。このスパンとは、すべてのことが出来ることによって、理屈的に、健常者と同じと言える状態の時期を指す。マズローの欲求五段階説の、自己実現の欲求を完全に満たしている状態になる。この事実は、概念が変わることを示す。承認の欲求までと、自己実現の欲求との壁を、完全に超えることが、自立支援においての最終的な課題となる。

 

これは、障害者支援だけではなく、介護においても同じことがあてはまると言える。

 

人間の老化は自然現象である。が、精神の老化は、エンパワーメントの視点が必要となり、さまざまな、高齢者と言われる人に対してのハラスメントが関係していると考える。それらを全部取り除けば、精神の老化を最小限に留めれると考える。人間は、生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、自立した戦士であり、戦士の誇りを誰も失いたくないものである。その戦士の誇りは、人生を生きるということの基礎(土台)であると言え、つまり、誇りを途中で失う、または、奪われた人間は、生きるということに臆病に接するようになる。つまり、ガード意識を持って暮らすということである。いずれ死ぬことは、確実な事実であることから、構える必要はまったくないのであり、それに怯えて暮らすなんてばかげていると言える。戦士の誇りが維持されることで、生活のすべてが建設的に成立するのである。ICFの背景因子に、環境因子、個人因子の他に、普遍因子という概念が必要になる。それが、戦士の誇りを指す。それに伴った、健康状態へとつながるというICFの仕組みになる。この普遍因子が完全に起動するためのアドボカシ―が必要となるのである。「高齢者」という軍旗を立てるのを辞めてしまうその福祉改革が求められると考える。そのための「暮らし診断」という介護サービス制度の実行性なのである。つまり、精神の老化を最小限に留めれば、介護が必要な利用者であっても、自立支援の援助を受け、福祉の力を借りて、最終的な目標の段階に達することで、理屈的に、生まれてからずっとしてきた生活と同じと言える生活が送れることが、理論上可能であると言えるということである。

 

いわゆる、ハラスメントと呼ぶことは、人間社会が持つ秩序が原因で生じる事象であり、言い換えると、天然犯罪と呼ぶことが出来ることである。あえて名前をつける意味はあまりなく、そういうものは、太古から人間社会にあったものであると考えられる。高齢者と言われる人に対してのハラスメント、人間の人格に関するハラスメントは、パワハラやセクハラなどの、人間社会があるから生まれるハラスメントではなく、人間社会がそうだからこそ生まれてしまうという、当事者主体のハラスメントであるということ。だからこそ、改革が可能であり、価値観を転換することで問題解決が出来るということになる。

 

自立支援は、健常者、もしくは、ずっとしてきた暮らし、つまり、何も問題がない状況の心身の、福祉を使った再現、維持が目的であり、したがって、根底にあるのは、「自分で何かをすること」という概念の援助の反復である。

ターミナルケアにおいての介護士の包括的な役割

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ターミナルケアは、正しく、受容の時期へと入ることが出来るように、抑うつの時期を確実に、クリア出来るかで、決まる、決すると言っていい。

生きる意欲、生活する気力が、低下して(消失しかけて)、(日常生活を)生活しにくくなる。それにより、抑うつ状態になる。これは、一つとして、自分の価値を失うことでの、アイデンティティのためのウツもどきによるものと言える。この症状は、必ず、原因が存在する。すなわち、原因を見つけ、解消する。自分の、性格、特性などを含む概念としての価値を見つけて、再確認することで、問題が解消され、(日常生活を)生活しやすくなる。それには、臨床心理士のカウンセリングではなく、自分で、解決することをする心理学的技術の必要性を示す。

存在の根のところで自分を受け入れアイデンティファイ(確認する)していないと、確実な「死」という人間の最後の通過点を受け入れなければいけなくなった時、必ず、人間のアイデンティティはゆらぐのである。そのためには、自分のアイデンティティの再確認、再認識が不可欠となる。

アイデンティティは、人それぞれ人の数だけ個性があり、自分で再認識することは、容易ではない。だが、ターミナルケアにおいて、ケアチームに臨床心理士を招いて、チームアプローチを依頼するのは、終末期ケアという、本人や、ケアのスタイル上、厳しいものである。なおって、元の場所に戻って、社会でまた生活をしていくために受けるのが、カウンセリングなのであり、終末期ケアの患者(利用者)は、戻る生活そのものがないのである。そこで、臨床心理士の代わりとして、白羽の矢が立つのが、介護士である。介護士には、身体介護、生活援助の他に、相談、助言という役割がある。この助言という枠の中でこのことがおぎなえると僕は考える。その、自分で、抑うつの状態を正しくクリアするための(心理学的)技術、システムの提供、つまり、助言として、患者(利用者)にアプローチする。それを患者(利用者)自身が、自身で対策を行い、自身で問題を解決する。そして、正しく、受容(最後の休息)の段階へと進むことが可能になるのである。

このような手法で、ターミナルケアで、受容(最後の休息)につながる、抑うつ(無力感)の時期を支える。それが、従来の、生きるための希望につながる、身体介護、生活援助に加えて、ターミナルケアにおいての、介護職員に求められる役割である。この技術提供で、これがあれば、大丈夫と、患者(利用者)が感じとることが必要なのである。

他に、相談という介護職員の役割もある。これは、患者(利用者)の話を聴くことが主、ベースになることである。ただ、傾聴し、共感的応答をするだけでは、終末期ケアにおいての介護職員の役割は、果たせない。

本来、介護職員に、一番身近な存在として、介護においての利用者は、信頼を寄せるのであるから、介護職員は、それを自覚し、その役割を果たせれるような働きを利用者にしていくべきである。終末期ケアの場合は、傾聴するだけでは、利用者は、聴いてくれてると心からの満足をしない。どこかで、割り切って、こんなものだろうと納得をする。ターミナルケアにおいて、共感的理解において、利用者に安心を与えるには、哲学的センスがある必要があるということであると思う。ちゃんと、哲学というセンスの本質を掴んでいる人が介護をすることで、利用者は、その人に安心を感じとれるのだと思う。哲学には、人を安心させる部分がある。

利用者は、無意識に介護職員に相談をし、確実に聴いてもらえたと理解することで、「今の自分」という「答え」を見つけているのである。そのためには、聴く側の介護職員に哲学的なセンスがあれば、コミュニケーションを通じて、その哲学的センスからの応答として、自分の姿に重ねれるということである。それにより、無意識に、哲学的解釈で自分を受け入れることが出来るのである。

相談は、やさしさではない。やさしさのセンスである。哲学的センスは、人それぞれであることから、介護職員、それぞれの哲学的センスで利用者を介護すればいいということである。

身体介護、生活援助。助言。相談。この三つが、介護士の仕事であり、これまでに説明したこれらの解釈からの援助行為は、介護士しか成しえないことだと言える。では、技術について説明していく。1から4までの手順があり、この手順をくんで、自分のアイデンティティを分析し、何を自身に助言するかを探求していく。

1

仕事、家庭、恋愛、性格、特性などを照らし合わせて、今抱えている問題のテーマを見つけて(一つとは限らない)、そこから今の問題を持っている環境を、つまり、自分に対しての疑問文を割り出す。

2

なりたい(自分の)状況をイメージ分析する。

3

(自分の)アイデンティティを発見する。自分の人生って何だったんだろう、自分はいったい誰なのかという、自分ということの概念としての価値観。

4

それを再確認、再認識出来るような助言を自分にする。

以上である。

自分の人生に関するアイデンティティが定まらないことのウツもどき症状を改善、解決する心理学的技術。こういう技術があるということを紹介すること(表現ではない)をする。患者(利用者)は、これがあれば、大丈夫と思う。後は、利用者自身がその技術を利用し、習得し、抑うつの時期を一番ベストに解決する。

これまでのケアは、全人的苦痛の中の精神的苦痛のケアである。上記に紹介したこれらのケアをし、介護士が役割を果たすことで、より正しく、利用者は、受容の時期に入ることが出来、社会的苦痛のケア、QOLを重視した、物理的な行動などによる「整理」が行われる時期を過ごしていくこととなる。

まとめると、結果的、ケアには、二つのポイントがある。

抑うつの時期までに、ある程度、正しいケアを受けれれば、抑うつの時期に入ることが出来る。でも、ある程度ではだめであり、ちゃんとしたケアを受けることが前提である必要がある。これが、一つのポイント。正しい過程で抑うつの時期に入れても、正しい過程で抑うつの時期をクリアしないと、受容の時期に入った時に、完全に定着出来ない。つまり、受容の時期を正しく経験出来ないのである。抑うつの状態に陥るプロセスと、改善するプロセスは同じではなく、さまざまな意味で、単純に見えて、複雑に成り立っている。ようするに、正しく、抑うつの時期をクリアすることが大きく重要視されることになるということ。そのための、介護職員による、心理学的技術の提供(助言)であり、センスを必要な傾聴(相談)であるということ。正しい過程で受容の時期に入れないことで、しっくりと定着出来ないことで、過程の中を、さまよい、過程を行ったり来たりする。つまり、どこかにある問題を自分で探すということになる。このようなことが、二つ目の、一番大きなポイントになる。

ターミナルケアにおいての、患者の、死の需要過程は、個別性が高く、複数の段階が同時に起こったり、行きつ戻りつしながら、時間をかけて死の受容に至るとされている。すべての段階を通るとは限らず、順番もバラバラである場合もある。受容に至らないまま亡くなる人もいる。が、死が確実な、患者にとって、受容の時期を正しく確実に経験をし、人生を明確に整理することは、この場合の一番ベストなゴールであり、そのタイプの患者においての、最後の人生における休息になるのであることから、ターミナルケアにおいて、このことは、「必須事項」と言えるのである。

人生の最後に(人生の)整理という時期を確実に経験出来るかが、終末期ケアのすべてであり、本質と言える。そのために、患者(利用者)が、それに繋がる過程を正しくつとめて、ベストにクリアしていくことが必要であるということ。

「死ぬための整頓は、生きるためにすること」。つまり、自分の暮らし方を自分で決めて、自分でできることは、自分でするための生活をするための援助。つまり、自立支援である。助言による心理学的技術の紹介。(自己カウンセリング)*相談によっての哲学的観念による自身の人生観の飽和。(介護職員に安心を感じ取る選択力)どちらも、出来ることは自分でする。自分のことは自分で決めるという自立支援の概念にかなっているのである。

 

最後に

植木理恵氏の本を参考にしました。植木氏によると、アイデンティティが定まらないことからくるウツ症状があり、このタイプのウツもどきは、自分自身が何者かということにふと気がついたり、仕事や家庭における自信を何らかの形で得たりすると、一気に元気になったりするということ。そして、アイデンティティがスポンと収まる場所というのは、往々として、言葉にしづらいものであることが多く、「何となく落ち着くな」とか「違和感がないな」と感じる場所でアイデンティティは自然と根付いていくもので、何かを強く求めて自分を築こうというのではなく、「何となく」という、‘‘ふわっ,,とした感覚で自分をとらえていることのほうが大切だということを書いている。哲学の本質をつかむためには、川上未映子の短編集、「ウィステリアと三人の女たち」を推奨します。

*これによって、これから先に関しての、覚悟のような踏ん切りがつく。

欲の拡散と、人類の格闘。

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文明が発達した現代、これからの文明の進化において、確実に人は仕事をしなくなる。それは、正しいこと、正しい進化と言えるのか。僕は、疑問を感じてならない。

何故なら、過去の文明の進化の事例と大きく異なっているからだ。

文明が進化すれば、それに影響を受けて、仕事への意欲へ結び付け、より、意欲的に仕事に励むようになるはずだ。

過去、人類は、そういう風にして文明の進化を繰り返してきた。

それが、文明の進化のルールだとすると、現代の場合に、仕事をしなくなる方向へ繋がり、仕事に励む方向へと結びつかない、つまり、楽をするようになるのには、大きく疑問を感じる。

現代人は、過去の今までの人間のように、物に頼って、その機能性を役立てた上で、仕事の効率を上げ、仕事へ励むのではなく、自分が独立し、仕事を楽にするために物を使う。つまり、文明が進化したその延長線上には、「仕事をしなくても済む」、「仕事をしない」という結果の状態が待ち構えているのである。

この感覚の変化は、正当な進化のように思うが、疑問を抱くことは大事なことである。

人類社会が、より、繁栄していく上で、文明が産んだ素晴らしい科学技術の結晶が人間社会に現れた時に、楽をしたいという欲を行使するのが、果たして、本当に、最善で、適切と言えるのかという、壮大な大きな疑問点がある。

人類は、原始の時代、とても苦しい暮らし、思いをした。それは、今の我々には考えもつかない領域の苦難なのであったと思う。その苦難をしりぞけることが出来たらと願ったんだと推測する。だからこそ、我々、現代人には、文明の進化とは別に、根源には、楽をしたいという欲があり、そこからすべての進化のルーツが始まってるんだと思う。だからこそ、文明が発達し、IT文明の切れ端に遭遇した時に、その楽をしたいという欲が全面に出てしまう。まさに「自然」の理屈なのであり、何もおかしいことではないと言える。これが、何故、欲が出たかという理由になる。

欲の危険性について。欲は、その者自身を滅ぼす要因がある危険なものである。その、楽をしたいという願望の欲によって、進化が始まるきっかけが生まれ、人類の進化である、繁栄の歴史が始まり、その同じ欲によって、人類の繁栄に危険信号が灯るのである。自然のさがというものである。

その対策。人類という進化体そのものの殻を破る。それが、出来てこそ人類と言える。それが出来る逸材である。人類は。ニュー人類を生み出せるのは、我々、現代の原始人類である。進化体の底力を見せるのが必要。それは、楽をしたいという根源ではなく、もっと斬新で、発想力のある大志で成り立つ理想のようなもの。これが、躍動的な人類の未来へと繋がる、基礎のツールのようなものである。正しい進化の目的で、正しいやり方で、原始的な欲を遺棄すること。それが出来れば、この、欲という膿(うみ)が産んだと言えることが可能にある問題は、解決する。それが、次に書く最終的な問いの答えである。

何か、文明の進化のルールにそぐわない特殊なことが起きてるととらえることが、可能であり、それが、プラスの理由なのか、マイナスの理由なのか。プラスの理由なら問題はないが、マイナスの理由の場合には、気をつけなければならないのかもしれないと思う。

この場合、楽をしたいという欲を行使したことが原因での、文明の進化のルールにそぐわない、良くないことの、特殊な状態が起きている可能性があるからである。

このことのような矛盾が存在することから、次に書くことを問うことの必要性が生まれる。もしかすれば、我々は、文明の進化の過程の途中で、楽をしたいという欲を行使したことで、人類の繁栄に関わる、正しくない進化の方向へと進んでいる場合の可能性があるのではないかと、分析し、世の中に問おうと思う。

いくら文明が発達し、進化しても、人間自体がなまけている状態のことを、進化と呼べるのかという疑問があるということ。

進化とは、出来ないことが出来るようになる状態のことだから、人間が、向上心を持たず、労働努力を放棄し、なまけることが進化とは言える訳がない。これは、進化することをあきらめた姿ともとれるのである。仕事をしなくなった人間は、もはや、生クズであると思う。次へとつながるのは、生クズとしての未来しかあるはずがない。人工知能の賢さが、ずっと今のレベルであるはずがない。このことから導かれるのは、その賢さを持った人工知能に、我々が、生クズとして処理されること以外ないと思う。

今まで、文明が進化すれば、人間の中身、つまり、価値観や考え方も、それにつられて進化してきたのが現実である。それが当たり前のことなのである。それが、進化という現象なのであり、それが、なまけるという形で進化せず、比例しないのは、明らかに不自然という他ない。

つまり、このことから、我々の向かっている未来は、正しい進化ではなく、正しい進化は、別にあるのではないかということ。

今、世界は、自らで自らを滅ぼす方向へと向かっています。現在、向かっている未来の方角を、正しい未来性へと転換することが必要なんだと思う。それを、僕はやりたい。

文明が発達した現代、これからの文明の進化において、確実に人は仕事をしなくなる。それは、正しいこと、正しい進化と言えるのか。僕は、疑問を感じてならない。何故なら、過去の文明の進化の事例と大きく異なっているからだ。文明が進化すれば、それに影響を受けて、仕事への意欲へ結び付け、より、意欲的に仕事に励むようになるはずだ。

 

2018年2月末日

 

 


Pink Floyd - Money (Official Music Video)

 

 

 

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新しい秩序の人間社会 -ある自由観のような感覚-

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*社会のメカニズムの説明  是非、しっかり読んで欲しい。

*1(a) 国の財産が基礎(土台)に対して、犯罪被害者としての、社会への再起を賭けて臨んだ、イメージ内の格闘で身に付けた想像力を用いたスキルを、役立てて世の中を変えるという目的で創造した発想上で、国の財産が、国民の人数だけあり、一つ一つが、国民、一人一人の所有であるということ。

既存の自由とは、ざっくりとした、いわゆる、フリーダムというワードのものであり、この理想は、選ぶ、選択するというリバティーというワードの、明確な自由である。これは、犯罪被害者としての、社会への再起を賭けて臨んだ、イメージ内の格闘で身に付けた想像力を用いたスキルを役立てた、いわゆる、想像力による創造というアクションでのみ示し、表せることが可能な理想である。ただ、このスキルを身に付けた過程において、「ファンタジーパワー」を使ったと思う部分がある気がすることは否定出来ない。つまり、人間には、普段は使わない眠ってる力があり、それを開放することで、普段以上の、自分の持ってる力以上のことが出来るという、いわゆる「火事場の馬鹿力」というものを使った、使えたのではないかと思う部分があるということである。もしかしたらと思うことは、自然な感想なのかもしれないと思う。それ程に、犯罪被害者の心の傷を癒せられるスキルを身に付けれるという、通常の秩序では信じられないことが成し遂げられたのであるから。それは、自分にとって大きすぎる成果だった。

主義などの理想は、既存の自由という秩序に縛られて、その枠の中で模索されたものである。この理想は、既存である自由という秩序から勝ち取って、自由という名の束縛から解放された、別の観点における自由なのであるということ。

これは、アメリカ式の民主主義の応用形。このような、自由になりたい(解放されたい)というイメージとしてのアイデアの理想。

図。国の財産・基礎〇/〇(一(いち)国民の所有)〇(一(いち)国民の所有)〇(一(いち)国民の所有)……国民の人数だけ。省略、〇/〇〇〇……。

最後に、重要事項として示すが、僕は、戦うことが完璧に不能な自由さを身に持っている。それが、僕の自由観の実体である。その感覚のようなものが、このアイデアの理想を思い付いた基礎条件のようなものである。その感覚を「使う」ことが必須なことであったと言えると思う。そのような感覚のようなものを平地とすると、その上に建物を建てたという表現が的確だと思う。

*1(b) これは、つまり、個人財産の量が違うことが当たり前という観念に、とらわれないというものである。それならば、目的の、人間社会が不平等であるという問題を解決する、そのために、このアイデアの理想の、長所となる、個人財産の量が違うことを活かすことで、問題解決のための進展には出来ないかということと思う。それには、活かすということの理屈上、本質は変える必要がないということになるので、それにより、するべきことは、そのものの見方を変えることということになる。その立案の方向性により、いろいろと試した結果、まず、かっこをつけてみると、〇/〇〇〇……⇒(〇)/(〇〇〇……)となる。訂正として、基礎としてベースになるものにかっこはいらないという判断から、(〇)/(〇〇〇……)⇒〇/(〇〇〇……)となる。次にすべきことを模索した時に、/を消すしかないとの判断に委ねてみて処理をすると、ここで、偶然の産物と言える発見をすることになる。〇/(〇〇〇……)⇒〇(〇〇〇……)となり、結論的に、〇/〇〇〇……を(〇(一(いち)国民の所有)〇(一(いち)国民の所有)〇(一(いち)国民の所有)……国民の人数だけ)の所有物=〇国の財産・基礎、省略すると、〇(〇〇〇……)に置き換えることが成立するのであり、これが何を示すかというと、1(a)の文頭の基礎の国の財産が、一人一人の所有物であるというくくりで表せるということである。⇙

国の財産を、国民の全員に行き渡るようにするために、さまざまな項目を元にしてそれぞれの国民へと分別することによって、(セルフ)プロデュースする。平等という価値観を持ったとらえ方をする。個人個人に分別された手元にある財産は、「分別される前の対象物が、(数え方の)一体の基礎である上で一人一人のもの。」という認識になる。情報や権利のように、コピー出来るものは、分別せずに(セルフ)プロデュースする。つまり、模写する。平等という価値観を持ったとらえ方になる。個人個人に模写した手元にある財産は、「模写する前の対象体が、(数え方の)一つの基礎である上で一人一人のもの。」という認識になる。そのようなイメージ上での平等の理解を持って過ごしていけば、現実では不平等な社会でも、発想として理解をしている以上、(完全な)平等な社会で暮らしているという実質的事実となる。

*2 個人個人の所有物を、〇/〇〇〇……のイメージにとらえる。⇒〇/〇〇〇……を、〇(〇〇〇……)に置き換える。⇒国民へと、(セルフ)プロデュース(人の立場などによって分別)OR(セルフ)プロデュース(模写)する。⇒人によって量が違うからこそ平等だと思う。

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*3 新しい、物の流通システムの人間社会の、メカニズム。二つ目の秩序概念(本当の

平等)(同調としての秩序)。〇(〇〇〇……)。

 

資料


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