SENSE OF BLUE DISTORTION

「介護」のテーマである話

川崎の事件の僕が思う真相

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追加として、人が、死をコントロールしてると錯覚するパターンを紹介しておく。それは、確立した自害である。
自害というのは、敗北者の美学とも言える死の手段である。生きざまとしての死を行うことで、敗北の意義を自分の中で創り出し、敗北を正当化しようとする姿勢の表れであると言える。かわいくもあり、興味のない人から見たら、おもしろいともとれることであると思う。タイプとしては、無才であることを活かしたものだと言える。
だが、この死の行いをしても、失敗が、成功に変わることはないので、何かが確立することではないと言え、このケースの行いは、死に方とは言い難いと思う。
だが、もし、確立した自害が出来たら、それは、死に方と言えてしまうのである。
それは、どのようなものかと言うと、敗北して自害するのではなく、成し遂げて自害するというケースとなること。
何かを成し遂げることはたやすいことではない。だから、敗北する人物が生まれるのであり、そのために自害が行われると言える。
だが、「たやすいことで成し遂げる」という概念が存在するかもしれないということである。
これに当てはまることは、「犯罪ということ」を加えれば説明が可能となる。
それは、世にもおそろしいことだが、何かおそろしい犯罪行為があって、もし、本人がそれで、「何かを成し遂げた」と錯覚して、自殺行為すれば、それは、物理的に、生きざまとしての死が成立することになることから、これは、確立した自害と言えてしまうことになるという話である。
川崎の事件は、まさにこれであると僕は思う。
なぜなら、自殺とは、生きるエネルギーがゼロになった者がする行いであり、したがって、何も努力をしなくても済む、極端に消極的な手段で死を選択するのが論理的であるからである。宗教がからむとまた、別の問題の話になるのだが、このケースは異なり、自殺目的ではなく、本人の中での、自害目的というものなら、説明がつく。
何故、錯覚したか。それは知らない。