SENSE OF BLUE DISTORTION

「介護」のテーマである話

戦争の棄却を発表する

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戦争をどうするかについて話し合う国際会議。
戦争の今後を決める目的の会議。
会議の戦争を行う。
その場で達成する。
戦争は棄却され、核兵器の遺棄が決定される。
「すべての国の輪」のようなフレンドリーな契約が執り行われ、世界は永遠に平和となる。
平和で達成した社会の出来上がりである。

 


世界を変えるためにあなたがこの概念を世に出すパフォーマンスを執ること。

葬儀介護士

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介護士が葬儀を行う。亡くなった人間の家族に寄り添い、一人の生きている人の生活を支える仕事。

介護保険のサービスとは、まったく分別したもの。生前、介護をした続きでは行われない。専門の介護士はいなく、通常の介護士が併用して行う。

民間の運営。保険葬儀システムの会社。バンク登録制。社員は、非介護経験者が行う。葬儀は、夜にあることから、その時に行ける介護士が行く。

葬儀を質素にしたい、特別なようにはしたくない。それでいて、質のあるサービスを受けたいという人に適したシステム。
保険料を少しずつ払うことで、その人が亡くなった時に、実際の費用の数パーセントで、質のある葬儀が行える。

資格はなく、講習を受けることが前提。しかし、講習を受けれる条件として、介護士としてのある程度の経験があることが必須となる。

令和の時代に成し遂げるべきこと 2  

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成し遂げることから逃げ、使命と引き分ける。つまり、それぞれの国が、戦うこと自体から引退してしまえば、紛争が、いつまでも起きない世界が樹立出来る。これが達成となる。
力の棄却である。力は、もう無理だ。戦争はもう無理だ。押し付けられたものなら、押し返してしまうことが出来るという考え方である。放棄ではなく、断念でもなく、この「棄却という行為」こそが、愛の成せる偉業になるのである。
この、紛争が起きないという世界こそが、我々が、ずっと求めてきた社会の形なのである。これが、現実的な、ユートピア社会というものなのではないか。我々は、この世界に行くために、いままで努力をしてきたのではないか。
戦争はなくならない。しかし、なくならなくても、しなければそれだけでいいのである。そのためには、力を棄却すれば良いということである。
つまり、愛にできること。その最終形態は、「力では達成出来ない」ということに気づくことである。なら、無理でしたということで、棄却してしまえば良いという考えにつながるということである。
これを、人類全体で、冷静に考えてみて欲しい。冷静に検討すべきだ。我々は、どのような現実を築きたいのか、どんな社会へ進みたいか。胸に聞いてみるべきだ。どのような結果なら、心から満足するのかということ。
平和の樹立は、契約社会にのみ完了する。

  

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令和の時代に成し遂げるべきこと

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戦争と平和は、対するものではなく、一つの目的を達成するための異なる手段。何かを達成するのには、多方向から攻めた方が実現しやすいということからである。だから、平和を志す人が、戦争を愛しても矛盾ではない。

太平洋戦争の時代、愛に力があるという考えはなかった。だから、その時、戦争を始めた人達は、平和という目的を達成するために、それを、戦争という力で成し遂げようとした。今、我々は、愛の力を持っている。それは、戦争を非難、否定する力である。

だが、愛の力というのは、平和の視点というフィルターを持つことである。つまり、戦争を否定するあまり、平和と戦争の溝を分け、まったく違うものと分別してしまうことになる訳である。このことにより、平和は保たれてきたと言える。いわゆる、「平和の時代」とはそういうものである。だが、これで、愛の力が発揮出来たとは僕は思っていない。それは、これは、愛を思う気持ちや、考え方、感性などが生み出した結果であり、我々日本人や、世界中の人が思う、平和の達成には程遠いからである。

じゃあ、平和の達成とは何なのか。
それは、「愛の資質を知る」ということである。
愛の力とは何なのかということの部分である。
そもそも愛に力があるかということになる部分となる。

平和の達成に努力してきた70年間、その結果と言うべきものが、「フィジカルに」何も世の中にない。この事実から、僕は、愛には、THINK、つまり、思うという資性がないと言うべきではないかという結論に達した。「その事実を知り、認めることが愛の力」なのではないかと思う。つまり、感受性の勝利ということである。

そのことにより、正しい妥協が出来る。つまり、達成する必要がないということへとつながるからである。
じゃあ、我々にとっての平和の達成とは何なのか。
それは、「レベルが高いから出来ること」ではなく、「レベルがゼロだから出来ること」という概念を見いだすことである。
このことにより、そもそもの達成という概念が変わる。
「我々、人類にとっての達成とは、逃げ出すことにより叶うもの。」というものになる訳である。

平和を押し進めた結果、戦争へと入ってゆくのなら、どうすれば平和を達成出来るのか。それは、戦争を捨て、何かを達成するという使命から、逃げ出してしまうことなら、達成出来るのではないかという理屈である。

愛の視点で戦争を学ぶことは、愚かで、無能の人がすること。大切なことではあるが。それは、自己満足の分野となるからだ。
「愛を大切に思ってる人が、愛のフィルターを通さずに戦争を知ること」。本当に、平和を達成したいのなら、これが条件だ。
「戦争のすべてを良くも悪くも正しく知ること」。愛の力で。

 

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川崎の事件の僕が思う真相

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追加として、人が、死をコントロールしてると錯覚するパターンを紹介しておく。それは、確立した自害である。
自害というのは、敗北者の美学とも言える死の手段である。生きざまとしての死を行うことで、敗北の意義を自分の中で創り出し、敗北を正当化しようとする姿勢の表れであると言える。かわいくもあり、興味のない人から見たら、おもしろいともとれることであると思う。タイプとしては、無才であることを活かしたものだと言える。
だが、この死の行いをしても、失敗が、成功に変わることはないので、何かが確立することではないと言え、このケースの行いは、死に方とは言い難いと思う。
だが、もし、確立した自害が出来たら、それは、死に方と言えてしまうのである。
それは、どのようなものかと言うと、敗北して自害するのではなく、成し遂げて自害するというケースとなること。
何かを成し遂げることはたやすいことではない。だから、敗北する人物が生まれるのであり、そのために自害が行われると言える。
だが、「たやすいことで成し遂げる」という概念が存在するかもしれないということである。
これに当てはまることは、「犯罪ということ」を加えれば説明が可能となる。
それは、世にもおそろしいことだが、何かおそろしい犯罪行為があって、もし、本人がそれで、「何かを成し遂げた」と錯覚して、自殺行為すれば、それは、物理的に、生きざまとしての死が成立することになることから、これは、確立した自害と言えてしまうことになるという話である。
川崎の事件は、まさにこれであると僕は思う。
なぜなら、自殺とは、生きるエネルギーがゼロになった者がする行いであり、したがって、何も努力をしなくても済む、極端に消極的な手段で死を選択するのが論理的であるからである。宗教がからむとまた、別の問題の話になるのだが、このケースは異なり、自殺目的ではなく、本人の中での、自害目的というものなら、説明がつく。
何故、錯覚したか。それは知らない。

僕が思う、マレーシア航空370便事件の真相。

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人が死を選択した時、どういう死に方が一番いいと思うのか、ということである。人間は夢を持っている。正しく死を選択したいという自由、権利を手に入れたいという夢である。自分がコントロールして正しく死ねるのが一番いいのである。

選択する死とは、自殺しかない。しかし、自殺には苦しみが伴う。それを避けて可能なものがないことは、誰もが分かってる。だったら、残りはこれしかない。つまり、人の理想の死に方は、楽しみながら、自殺行為で死ぬこと。楽しみで苦しみを消してしまうという、そういう死。それは、つまり、ゲーム的に死ぬということ。楽しみで苦しみを押し、消してしまう。楽しんで自殺する行い。物理的には、自殺だが、本人の中では正しい死だと、正しく死を選択したいう錯覚に陥る状態。死をコントロールしてる行為だと位置づけてしまう。だが、実際は違う。完全な自殺行為である。

僕は、「ノルウェイの森」の一場面にある、緑が空想する、二人で海賊につかまるシーンを自殺に置き換えてとらえている自分があることに気付いている。心中願望がある二人が、たまたま乗り合わせた船で、海賊に遭遇し、裸にされて、体を向かい合わせにぴったりとかさねあわせたままひもでぐるぐる巻きにされ、海に捨てられるという風に。これにより、ネガティヴじゃない心中が完成する。これには、海賊が、何らかの理由で、乗客を全員裸にして、二人一組でぐるぐる巻きにし、海に放り込むパターンと、海賊が、恋人と気づいた上での、一種の遊び心からのパターンの二通りが思い浮かぶ。これが、僕の考えるゲーム的に死ぬという行いにあたることである。これは、人の一方的な補助があった心中となる。

つまり、消えたマレーシア航空370便事件の真相は、機長の、夢の自殺プランだったと言えると僕は、思う。自宅でのフライトシュミレーションでプランを計画し、まるで、世界一周を計画してるような感覚。後は、乗客を乗せたまま、安全に、一切のミスや、ネガティヴ要素のない操縦で、海に着水し、ハッピーエンドを迎えるという、二次元的世界観による、世界一優雅な旅行計画という風に、機長の頭の中では成立していたのではないかと思うのである。

ターミナルケア。介護サービス。

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A

死ぬ前に、生きるために何かをする必要はないし、違う。充実とは、生きるために、次につなげるための効果を持つもの。死ぬ前に充実することをしても、意味を持たない。生に執着することになる。それは、間違ってることとは思わないが、正しいとも思えない。死ぬのに、生に執着するのが果たして正しいことなのかということ。

生きるために、人生を整理し、100%、自らの手で人生を完結させる。これが、必要なことだと思う。そのためには、生に執着するのではなく、安全に「生」という場所から離れるためのプロセスを、クリアすること。これが必要なんだと思う。

これを患者本人の能力に頼り、サポートすることをするのが、医療的な終末期ケアである。サポートではなく、確立されたサービスとして、利用者の能力を借りて実現するのが、介護的な終末期ケアである。

どちらも同じ結果を目指すものである。だが、本人の能力次第ではなく、福祉を行う側の能力で、すべての利用者にその効果を実現出来ることが可能なのが、介護サービスにおける終末期ケアである。

B

終末期ケアは、現在、医療の分野として確立しています。しかし、僕は、終末期ケアは、介護の分野だと考えています。理由は、人生を整理するという行いは、治療(医療的知識)では、解決出来ないからです。(介護保険を使う)利用者の心や生活に寄り添うことが目的の介護士なら、それが解決出来ると思うのです。

人生の整理のためにすることが成立していてこそ、「終末期ケアを扱う」と言えるのであり、そのためには、人生の整理とは何なのか、それが出来るためには、何が必要とされるのかを導き出す必要があるということなのです。

現在の、看護師が主体となって行っている終末期ケアでは、患者、利用者の能力、つまり、「凄い人間」でないと、人生の整理は出来ないということなのです。終末期ケアを受けた人が、全員、人生の整理が出来るには、終末期ケアを行う側の能力でなければ、ならないのです。

僕は、介護を志す人間として、終末期ケアで介護士が何をするべきなのかを考えました。

僕は、終末期ケアは、介護保険で扱うべき分野と考察します。         

ターミナルケアは、正しく、受容の時期へと入ることが出来るように、抑うつの時期を確実に、クリア出来るかで、決まる、決すると言っていい。

生きる意欲、生活する気力が、低下して(消失しかけて)、(日常生活を)生活しにくくなる。それにより、抑うつ状態になる。これは、一つとして、自分の価値を失うことでの、アイデンティティのためのウツもどきによるものと言える。この症状は、必ず、原因が存在する。すなわち、原因を見つけ、解消する。自分の、性格、特性などを含む概念としての価値を見つけて、再確認することで、問題が解消され、(日常生活を)生活しやすくなる。それには、臨床心理士のカウンセリングではなく、自分で、解決することをする心理学的技術の必要性を示す。

存在の根のところで自分を受け入れアイデンティファイ(確認する)していないと、確実な「死」という人間の最後の通過点を受け入れなければいけなくなった時、必ず、人間のアイデンティティはゆらぐのである。そのためには、自分のアイデンティティの再確認、再認識が不可欠となる。

アイデンティティは、人それぞれ人の数だけ個性があり、自分で再認識することは、容易ではない。だが、ターミナルケアにおいて、ケアチームに臨床心理士を招いて、チームアプローチを依頼するのは、終末期ケアという、本人や、ケアのスタイル上、厳しいものである。なおって、元の場所に戻って、社会でまた生活をしていくために受けるのが、カウンセリングなのであり、終末期ケアの患者(利用者)は、戻る生活そのものがないのである。そこで、臨床心理士の代わりとして、白羽の矢が立つのが、介護士である。介護士には、身体介護、生活援助の他に、相談、助言という役割がある。この助言という枠の中でこのことがおぎなえると僕は考える。その、自分で、抑うつの状態を正しくクリアするための(心理学的)技術、システムの提供、つまり、助言として、患者(利用者)にアプローチする。それを患者(利用者)自身が、自身で対策を行い、自身で問題を解決する。そして、正しく、受容(最後の休息)の段階へと進むことが可能になるのである。

このような手法で、ターミナルケアで、受容(最後の休息)につながる、抑うつ(無力感)の時期を支える。それが、従来の、生きるための希望につながる、身体介護、生活援助に加えて、ターミナルケアにおいての、介護職員に求められる役割である。この技術提供で、これがあれば、大丈夫と、患者(利用者)が感じとることが必要なのである。

他に、相談という介護職員の役割もある。これは、患者(利用者)の話を聴くことが主、ベースになることである。ただ、傾聴し、共感的応答をするだけでは、終末期ケアにおいての介護職員の役割は、果たせない。

本来、介護職員に、一番身近な存在として、介護においての利用者は、信頼を寄せるのであるから、介護職員は、それを自覚し、その役割を果たせれるような働きを利用者にしていくべきである。終末期ケアの場合は、傾聴するだけでは、利用者は、聴いてくれてると心からの満足をしない。どこかで、割り切って、こんなものだろうと納得をする。ターミナルケアにおいて、共感的理解において、利用者に安心を与えるには、哲学的センスがある必要があるということであると思う。ちゃんと、哲学というセンスの本質を掴んでいる人が介護をすることで、利用者は、その人に安心を感じとれるのだと思う。哲学には、人を安心させる部分がある。

利用者は、無意識に介護職員に相談をし、確実に聴いてもらえたと理解することで、「今の自分」という「答え」を見つけているのである。そのためには、聴く側の介護職員に哲学的なセンスがあれば、コミュニケーションを通じて、その哲学的センスからの応答として、自分の姿に重ねれるということである。それにより、無意識に、哲学的解釈で自分を受け入れることが出来るのである。

相談は、やさしさではない。やさしさのセンスである。哲学的センスは、人それぞれであることから、介護職員、それぞれの哲学的センスで利用者を介護すればいいということである。

身体介護、生活援助。助言。相談。この三つが、介護士の仕事であり、これまでに説明したこれらの解釈からの援助行為は、介護士しか成しえないことだと言える。では、技術について説明していく。1から4までの手順があり、この手順をくんで、自分のアイデンティティを分析し、何を自身に助言するかを探求していく。

1

仕事、家庭、恋愛、性格、特性などを照らし合わせて、今抱えている問題のテーマを見つけて(一つとは限らない)、そこから今の問題を持っている環境を、つまり、自分に対しての疑問文を割り出す。

2

なりたい(自分の)状況をイメージ分析する。

3

(自分の)アイデンティティを発見する。自分の人生って何だったんだろう、自分はいったい誰なのかという、自分ということの概念としての価値観。

4

それを再確認、再認識出来るような助言を自分にする。

以上である。

自分の人生に関するアイデンティティが定まらないことのウツもどき症状を改善、解決する心理学的技術。こういう技術があるということを紹介すること(表現ではない)をする。患者(利用者)は、これがあれば、大丈夫と思う。後は、利用者自身がその技術を利用し、習得し、抑うつの時期を一番ベストに解決する。

これまでのケアは、全人的苦痛の中の精神的苦痛のケアである。上記に紹介したこれらのケアをし、介護士が役割を果たすことで、より正しく、利用者は、受容の時期に入ることが出来、社会的苦痛のケア、QOLを重視した、物理的な行動などによる「整理」が行われる時期を過ごしていくこととなる。

まとめると、結果的、ケアには、二つのポイントがある。

抑うつの時期までに、ある程度、正しいケアを受けれれば、抑うつの時期に入ることが出来る。でも、ある程度ではだめであり、ちゃんとしたケアを受けることが前提である必要がある。これが、一つのポイント。正しい過程で抑うつの時期に入れても、正しい過程で抑うつの時期をクリアしないと、受容の時期に入った時に、完全に定着出来ない。つまり、受容の時期を正しく経験出来ないのである。抑うつの状態に陥るプロセスと、改善するプロセスは同じではなく、さまざまな意味で、単純に見えて、複雑に成り立っている。ようするに、正しく、抑うつの時期をクリアすることが大きく重要視されることになるということ。そのための、介護職員による、心理学的技術の提供(助言)であり、センスを必要な傾聴(相談)であるということ。正しい過程で受容の時期に入れないことで、しっくりと定着出来ないことで、過程の中を、さまよい、過程を行ったり来たりする。つまり、どこかにある問題を自分で探すということになる。このようなことが、二つ目の、一番大きなポイントになる。

ターミナルケアにおいての、患者の、死の需要過程は、個別性が高く、複数の段階が同時に起こったり、行きつ戻りつしながら、時間をかけて死の受容に至るとされている。すべての段階を通るとは限らず、順番もバラバラである場合もある。受容に至らないまま亡くなる人もいる。が、死が確実な、患者にとって、受容の時期を正しく確実に経験をし、人生を明確に整理することは、この場合の一番ベストなゴールであり、そのタイプの患者においての、最後の人生における休息になるのであることから、ターミナルケアにおいて、このことは、「必須事項」と言えるのである。

人生の最後に(人生の)整理という時期を確実に経験出来るかが、終末期ケアのすべてであり、本質と言える。そのために、患者(利用者)が、それに繋がる過程を正しくつとめて、ベストにクリアしていくことが必要であるということ。

「死ぬための整頓は、生きるためにすること」。つまり、自分の暮らし方を自分で決めて、自分でできることは、自分でするための生活をするための援助。つまり、自立支援である。助言による心理学的技術の紹介。(自己カウンセリング)*相談によっての哲学的観念による自身の人生観の飽和。(介護職員に安心を感じ取る選択力)どちらも、出来ることは自分でする。自分のことは自分で決めるという自立支援の概念にかなっているのである。

 

最後に

植木理恵氏の本を参考にしました。植木氏によると、アイデンティティが定まらないことからくるウツ症状があり、このタイプのウツもどきは、自分自身が何者かということにふと気がついたり、仕事や家庭における自信を何らかの形で得たりすると、一気に元気になったりするということ。そして、アイデンティティがスポンと収まる場所というのは、往々として、言葉にしづらいものであることが多く、「何となく落ち着くな」とか「違和感がないな」と感じる場所でアイデンティティは自然と根付いていくもので、何かを強く求めて自分を築こうというのではなく、「何となく」という、‘‘ふわっ,,とした感覚で自分をとらえていることのほうが大切だということを書いている。哲学の本質をつかむためには、川上未映子の短編集、「ウィステリアと三人の女たち」を推奨します。

*これによって、これから先に関しての、覚悟のような踏ん切りがつく